連載コラム「吉谷晃太朗のマチソワタイム」vol.47
演出家・吉谷晃太朗さんが若手俳優をランダムに紹介していく連載コラム。第47弾は赤澤遼太郎さんの魅力に迫ります。
舞台『文豪とアルケミスト 捻クレ者ノ独唱(アリア)』で吉谷さんの演出を受けた赤澤さん。その役作りから彼自身の深みが生まれていると、吉谷さんは分析します。
* * *
赤澤遼太郎について
念入りに念入りに本番までの準備を重ねる。役を自分に投影させた際に生まれ出る心の中の違和感。それを解消せずには前に進むことはできない。『リアル』を追求すればする程、役に対して嘘をつくことが出来なくなる。
初めて彼と交流して、生粋の役者だなと思った。それが赤澤遼太郎くんだ。
役作りにおいて、役への距離感が掴めなかったり壁が生まれたりした時、とにかく自分自身の心情が流れるまでやってみようと挑戦する役者と、腑に落ちるまで議論を重ねる役者がいる。
どちらも私は信頼を置いているが、彼はその両方のアプローチを行う。演技として行動をしながら、その上で心に生まれた違和感が何かを探求する。そして時に演出家と議論を交わして答えを導き出そうとする。
心、頭脳、身体どれもが必要な“俳優”という仕事において、理想的な役への探求方法のように思える。
その結果生まれるのが役の深みである。
赤澤くんは若いのに、どこか熟練工のようなシブい演技もするなぁと感心したことがある。
舞台「文豪とアルケミスト」で、平野良演じる太宰治と一対一で対峙するシーンにおいて、特にそれを感じた。
すでに幾度もその世界線で生きてきた太宰と赤澤くん演じる徳田秋声は、舞台版ではどことなく先輩後輩のような関係性であり、実年齢的にも平野くんとは離れているが、文豪が転生してきたという世界設定のこの作品において、明確に年齢設定の差を感じさせることはない。
つまり、虚実ともに後輩的な立場でありながら、フレッシュ感満載で相対することは出来ないのである。
先輩からバトンを渡される秋声(演・赤澤)は、その場で生まれる感情を大切に、情熱的な若さ全開の演技では勝負せず、心情を吐露する味わい深い印象的な一言を残して去っていったのだ。
そうした雰囲気が面白いと私は感じながら、彼と稽古で交流することで、プロローグとエピローグのシーンを急遽追加することにした。特にプロローグはこれから起こる不穏な未来を幻想的にダイジェストとして見せるというものだった。
深い眠りから覚めるシーンの前に、冒頭から赤澤くんに運命を背負わせたい。苦悩する赤澤くんの生の姿のようなものを見せたい。リアルタイムにど頭で赤澤くんの心に負荷をかけたい。そう思えたのだ。
「生の彼を見せたい」「どことなくドキュメンタリーのように作りたい」そう思えたのである。
もちろん物語にとって無駄なシーンを追加するわけにはいかないが、平常心の中で序盤を進むより、彼の心に何か引っ掛かりを残しておきたかった。
それをすることで、彼の演技への深みをサポートできると思ったのだ。
シーンを追加したいと思える役者は、特別な力を持っている。冒頭とクライマックスは赤澤くんの本質が作り上げたシーンである。
頭で皆さまをお迎えし、最後を締める。主演を務める者として申し分ない力を持ち合わせている。
それが赤澤遼太郎である。
マチソワとは――昼公演という意味の「マチネ」と夜公演を意味する「ソワレ」を組み合わせた言葉。マチソワ間(かん)はマチネとソワレの間の休憩のこと。
広告
広告